こんばんは、おはようございます、こんにちは。popstyle編集長の森田睦です。
本日は更新が遅くなってしまいました。定時更新できれば良いのですが、元来の性格が禍して・・・。)
さて、今回も先週末に引き続き、宝塚歌劇団のスターが読売新聞に初登場した紙面を探る連載「宝塚 初物語」です。
11回目は「東京三羽ガラス」こと、淡島千景さん、久慈あさみさん、南悠子さんを取り上げます。
まずは、淡島千景さんです。
淡島さんは越路吹雪さんの2期下の29期生です。娘役として活躍しました。1950年の退団後、映画「夫婦善哉」、「駅前」シリーズなど数多くの映画、舞台に出演しました。
さて、読売新聞への初登場は、松竹所属だった1951年3月3日です。
同年2月22日に発生した、東京・築地の中華料理店での殺人事件(築地八宝亭事件)を捜査本部を訪れ、高峰三枝子さん、佐分利信さん、佐田啓二さんとともに慰問した、という記事です。慰問の品が花束とタバコだったことに時代を感じます。
初登場から15日後の3月18日朝刊=上の写真=は、「てんやわんや」「奥様に御用心」の演技で東京映画記者会賞(現ブルーリボン賞)の演技賞を受賞したと伝えています。
当時の読売新聞には、近況を伝える「私の日記」「我が家」というコーナーがありました。
淡島さんは、1951年12月8日朝刊の「私の日記」に登場。12月7日の出来事を紹介しています。
午前中は大船撮影所で正月映画「陽気な渡り鳥」の撮影。午後は剣劇の舞台の稽古。午後9時半に帰宅し、10時過ぎに夕食。「あとはガックリ眠るだけ」と締めています。
この記事を読んで、2つの驚きがありました。
1つは、お正月まで1か月を切った時期にもかかわらず、お正月映画の撮影をしているということ。数か月、場合によっては1年以上前に撮影を済ませ、編集作業をするのが普通かと思っていましたが、「撮って出し」のようなスケジュールだったのですね。この時代だからでしょうか、それとも「陽気な渡り鳥」が特別だったのでしょうか。
もう一つは、午後10時過ぎに夕食をとったことも、翌日の朝刊に載せられている、ということ。
締め切り時間は何時かわかりませんが、帰宅・夕食の部分はギリギリに付け加えたのではないかな、と推測します。
1952年8月8日夕刊の「我が家」にも淡島さんは登場します。
今では信じられませんが、住所が書いてあります。35坪の和洋折衷の家だったそうです。マネジャーと弟2人、お手伝いさん2人ら7人で暮らしていて、犬も3匹飼っていると紹介しています。「ただなんとなく大切にしているのは」15センチほどの観音像と白木の数珠だそうです。
続いて、久慈あさみさん。(久慈さんも29期生)。
初登場は1950年10月24日夕刊で、正式退団のニュース=右の写真=です。
映画の撮影が立て続けにあることを説明した上で、「映画ばかりでなく機会さえあれば舞台にも出たい」と抱負を語っています。
後に久慈さんも「私の日記」(1952年2月9日朝刊)に登場。2月4日の出来事を振り返っています。
映画の撮影が終わった直後のようで、「私は忙しいのが好き」とつづっています。この日は、歌のレコーディングを午前中に済ませ、午後はラジオ番組の収録。そして、銀座で買い物をして、ウナギ屋へ。そこで生き肝をお酒でグイッとやったそうです。
「大酒飲みじゃない」と書いてありますが、洋酒が好きでウイスキーグラス10杯くらい飲むとのことです。いやいや、なかなかなものです。この日は、その後午後6時、7時と2か所で豆まきイベントに参加したようです。
同じく29期の南悠子さんの初登場は、1956年10月25日夕刊=左の写真=。
舞台「百舌と女」に出演し、花嫁姿をしたところ、見に来ていたお母様が「こんなかっこうの出来るひとではない、とあきらめていたが、この舞台を見てせめてものなぐさめにしてるわよ」と言われ、苦笑した、という記事でした。
南さんは1971年に退団し、舞踏家・藤間勘右として活動されました。
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