こんにちは、こんばんは、おはようございます。popstyle編集長の森田睦です。
宝塚歌劇団のスターが読売新聞に初登場した紙面を探る連載「宝塚 初物語」。
12回目になりました。今回は故里(ふるさと)明美さん、明石照子さん、新珠三千代さんを取り上げます。
故里さんは29期。1942年に初舞台を踏みます。戦後は伸ばしていた髪を切り、男役スターとして活躍しました。
読売新聞初登場は1956年7月30日夕刊。宝塚大劇場で「貴妃酔酒」の楊貴妃を演じるという話題でした。中国の女形・梅蘭芳が演じた楊貴妃を観劇した後なので、やりにくいなあ、と答えていました。
1959年に退団した後の1960年4月1日夕刊では、日本テレビのドラマ「香港ジョー」に出演するという記事がありました。
結婚して料理屋の女将になったとか、東宝と不仲になったといった噂話があったようで、「絶対にそんなことはありません」と否定していました。
明石さんは、戦中の1941年に入団。時代に翻弄され、1946年になってやっと初舞台を踏みました。
初登場は1957年1月25日夕刊。「ブーケ・ド・パリ」公演の前触れ記事です。オペレッタ歌手として珍しく女役を演じると伝えられています。
1962年7月3日夕刊では結婚関連の記事が掲載されました。
この月に結婚のため宝塚を退団する明石さんが、あいさつのため来社したというものでした。「結婚後も舞台を続けて、日本人に合うようなミュージカルをやってゆきたい」と抱負を語っています。
新珠さんは明石さんと同じ1946年に初舞台を踏みました。
初登場は1953年8月28日夕刊。10月の帝劇現代劇のラインアップ紹介記事です。徳田秋声原作、菊田一夫脚色・演出の「縮図」のヒロインを演じると記されています。
新珠さんは菊田さんを師と仰いでいました。1953年12月7日夕刊の連載コーナー「わが師わが友」でも菊田さんのことを熱く語っています。
菊田さんが宝塚のために書いた「猿飛佐助」が仕事を一緒にした最初で、「ジャワの踊り子」「ひめゆりの塔」「縮図」と続けて一緒に仕事をしたようです。
菊田さんは、なかなか褒めてくれず、良くない演技の時は「ホホウ」というらしく、「あたまから怒鳴られるより、この『ホホウ』がどんなに骨身にこたえます事か」と。なかなか厳しい師匠だったようです。
1981年9月6日朝刊の「私のデビュー」というコーナーでも菊田さんについて語っています。
デビューの思い出を中心に語るコーナーのはずですが、デビュー作を3行で紹介した後は、「それよりも忘れられないのは菊田一夫先生のことです」と菊田さんの話になってしまいます。
その記事によると、「女の旅路」(1963年)では台本ができたのが、初日の前日で、新珠さんはこれが原因で菊田さんと大げんかをして舞台から遠のいてしまったそうです。しかし、13年ぶりに舞台に戻ってきた時にはすでに菊田さんは他界。「先生がいてくださったらな」と、しみじみと語っています。
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