こんにちは、こんばんは、おはようございます。popstyle編集長の森田睦です。
宝塚歌劇団のスターが読売新聞に初登場した紙面を探る連載「宝塚 初物語」。
今回は有馬稲子さんです。
「宝塚歌劇の殿堂」に入っておられる方をおおむね年代順にご紹介していますが、だんだんご健在の方を取り上げるようになってまいりました。
劇場や銀幕、テレビで活躍されているのをリアルタイムで見ていた方々だと、ちょっとだけ距離が近いように感じるのは気のせいでしょうか。
さて、
有馬さんは1949年に入団。在籍はわずか4年でしたが、娘役として人気を得ます。
その後、小津安二郎監督「東京慕色」、今井正監督「夜の鼓」、舞台「風と共に去りぬ」「奇跡の人」に出演。最近ではテレビドラマ「やすらぎの郷」「やすらぎの刻」に出演されていました。
読売新聞への初登場は1953年2月2日夕刊。映画進出直後のことです。
「新人指名」という監督や演出家、ベテラン俳優が期待する若手を紹介するコーナーでした。(成瀬巳喜男監督が香川京子さんを、佐伯幸三監督が若尾文子さんを紹介したりしていました。)
ここで、千葉泰樹監督からご指名を受けています。
千葉監督の第一印象は、「花のように明るい感じの人」でしたが、撮影直後に「むしろ哀愁が濃いことを発見した」と書いています。
続けて「性格にも深みがあり、悲劇女優として十分に大成するだけのものを内に含んでいる」「悲劇女優の本命としてその将来に大きな期待をもっている」と。
1960年1月25日夕刊で、元新聞記者と不倫する日陰のヒロインを演じた映画「わが愛」を見た弊紙記者も「また数段と成長を認めなければなるまい」「女心のせつなさ、そして社会的にもきわめて複雑な女性心理をいみじくも表現する」「今年まず期待したい女優である」と書いています。
有馬さんは2人の言葉通り、その後もご活躍を続けております。(逐一の紹介は省略させていただきます。)
さて、1988年6月12日~8月14日まで全10回続いた朝刊での連載「あの時この人」で、有馬さんは反省について振り返っています。
宝塚時代を語っている回は6月19日付。
芸名のことを振り返っています。お母様も宝塚に在籍したことがあり、その時の芸名が「有馬稲子」だったというのです。入学式の日に打ち明けられた有馬さんは「名前を継ぐ気はなくて」と、「三都路京子」という名前にしようと思っていたそうです。(結局、二代目有馬稲子となったわけで、日の目を見ませんでした。)
また、男役は見るのは好きだが、演じるのは大嫌いで、男役の打診があったのに、断ったそうです。宝塚では男役が花形なのに・・・。
有馬さんの記事は抱負にあります。ご興味ある方は、縮刷版や「ヨミダスパーソナル」で、お読みくださいませ。