読売新聞水曜夕刊掲載の新感覚カルチャー面「popstyle(ポップスタイル)」。本日の特集ALL ABOUT ヨーロッパ企画 をご覧いただけましたでしょうか。広い紙面に情報をぎゅう詰めしても、ALL ABOUT という域には届かない、というのは毎度のことなのですが(だったら大風呂敷広げるタイトルはやめいと怒られそうですが)、とにかくそれを補ってるのが、このポップスタイルブログでして。紙面に盛り込めなかった座談会の部分を【番外編】と名付けておりますが、結成の経緯や各メンバーが加入したいきさつが語られているので【根本編】や【そもそも編】という方がニュアンス的にふさわしいのかもしれません。とにかく、お楽しみいただけたら幸いです。
――結成の経緯は?
諏訪雅 大学の学園祭で舞台がやりたくて、(演劇サークルで)仲の良かった後輩の上田君と、あんまり仲が良くなかったけど永野君を誘って。永野君は俳優を目指していた
から。
上田誠 諏訪さんとは同じ工学部で、部室でよく一緒になりました。
永野宗典 誘われて意外でしたけど、うれしかったですね。諏訪さんは気になる先輩。上田君は一つ下ですが、入ってすぐに影で演出してくれて。「このせりふ言ってくださ
い」ってめちゃくちゃ仕込んできた。
――第1回公演は1998年の「ところで、君はUFOを見たか?」。
諏訪 僕は初めてあんなに客席が笑っているのを体験した。最終日はお客さんがいっぱい来た。
永野 立ち見もいたし。
諏訪 黒字が出て、たこ焼きパーティーをして。
――次に入ったのは?
石田剛太 僕と本多(力)です。上田と同学年で、永野さんは慕っている先輩。
永野 初めて大学でできた友達が石田君でした。
石田 学園祭で手伝いをしたんです。公演を見たら面白くて、傾倒していった。
――2000年に演劇サークルから独立し、さらにメンバーが増えます。
中川晴樹 僕は別の劇団にいて客演だったけど。数年後、公演の打ち上げの席で「入りたい」って言わされたのを覚えてます。
酒井善史 僕は1999年に入学して、「入りたいです」と言ったら断られました。調子が良かったんですよね……。
諏訪 イケイケで。そういう人は僕は苦手やったんで、無理かなって。
酒井 しばらくスタッフをやっているうちに出してもらえるようになりました。その後、先輩たちに教育されて、あんまりしゃべれなくなりました。みんなでテレビ番組を見
てて、テロップが出て僕1人だけ笑ったら、テレビを消して「今、何で笑ったん?」と問い詰められたりして。
――2004年に劇団員のオーディションがありました。
角田貴志 友近さんがラジオ番組で「ヨーロッパ企画の舞台が面白い」と言ってはって。見に行ったら自分と同じような人がやってる感じがしたんですよね。
――役者になりたかったんですか?
角田 全然。当時、色々受けてたんです。マルチ商法の説明会とか。
――マルチ商法……。
角田 募集の内容が「あなたが今まで作った作品を持って来てください」というやつで、役者以外もやる人らかな、って。
永野 むちゃくちゃ持って来てくれたんですよ。美大に行ってたから絵がうまくて。ただ、変やったのが、虫の絵がひたすら出てきて。そこにひかれました。
土佐和成 僕は大阪に住んでて、関西の面白い劇団を探してました。面接の次の日に上ちゃん(上田)から丁寧な断りのメールをいただいたんですけど、「劇団員じゃなくて
いいんでお手伝いさせてください」と。
――何で落としたんですか?
上田 うちじゃなくてもやっていけそうやな、って。既に別の芝居に出てたし。今でもうちしかいられない、って人を採りますね。
西村直子 私は大学に行く気がなくて。高校卒業する頃に深夜番組でヨーロッパ企画がコントをやってるのを見て面白かった。オーディションの締め切りは3日くらい過ぎて
たけど、面接は受けられました。
――大阪を舞台にした「来てけつかるべき新世界」(16年)以外、関西弁の作品がないのはなぜ?
上田 関西弁というよりは日本語でやりたいと思うから。何となく、僕らの射程は日本。関西でやろうと思ったら関西弁にしてたと思う。なおかつ、世界に出ようと思ってい
たら「ヨーロッパ企画」って名前は付けなかったでしょうし。
西村 確かに。
――劇中の、執拗なまでに動作を繰り返すのは関西っぽいかも。
石田 しつこいんだよね。
上田 「ビルのゲーツ」(14年)って作品もスタイリッシュに見えるけど、やってることは関西のお笑いの影響がある。劇団が芸人さんに唯一勝てることは、役に乗っかり
きることやと思います。設定とか自分たちが決めたルールとかに乗っかる。バランスを欠いても、ばかげたことを集団でやりきる。