こんにちは、こんばんは、おはようございます。popstyle編集長の森田睦です。
先週末、俳優の田中邦衛さんの訃報がありました。
「北の国から」世代(より少し後ろの世代)なので、私は「北の国から」を見ずに生きてきた超少数派なので、田中さん=黒板五郎(「北の国から」での役名)と関連づけが薄い脳の構造になっております。
田中さんといえば、大好きな映画「若大将」シリーズにおける青大将・石山であり、「食べる前に、のむ!」(大正漢方胃腸薬)と、大人のアフター5の備えを教えてくれる方でした。
さて、そんな田中さんは読売新聞の取材を数多く受けてくださった方です。
読売新聞に何を語ってくれていたのか、読売新聞がそれをどう報じていたのか、振り返ってみたいと思います。
1957年に映画「純愛物語」でデビューした田中さんの名が初めて読売新聞に登場したのは、62年9月26日朝刊の「テレビ週評」でした。
日本テレビ系のドラマ「二流の女」に出演した田中さんを記者は「個性にみるべきものがあるのでおもしろかった」と評しています。
安部公房さんの描き下ろし戯曲「緑色のストッキング」(読売文学賞戯曲賞、紀伊國屋演劇賞個人賞)についての記事(1974年11月19日夕刊)で、記者は「田中邦衛が公演している。肉体の動きを重要視してきて、落としそうになった人間味をひろいあげた」と評価しています。
俳優座養成所の試験に2度落ち、3度目でやっと合格した田中さん。パッとせず田舎に帰ろうかと思っていたところ、58年の舞台「幽霊はここにいる」で主役に起用されます。
その頃を82年5月23日朝刊の「私のデビュー」で語っています。
主役への抜擢は「うれしさより、こわさが先立ち、演技もままなりません」。
「夢の中でまで、(演出の千田是也)先生に追いかけられました」
そんな追い詰められた状況に、千田先生の妻が薬用酒をそっと差し入れしてくれたのが「本当にうれしかった」そうです。
「話すと“普通の人”が出る」との見出しのインタビュー記事(78年4月23日朝刊)は、田中さんの人柄の一端が現れたものでした。
記者が田中さんの印象を「感情の注入が激しい俳優」と評したところ、本人は「守勢の心境が多いみたいですよ。ダメなことの責任はいつも自分にあるような」と自己評価しています。
「認める一点があれば、それで納得」する性格だったようで、グループサウンズブームから出てきたショーケンこと萩原健一さんを「シビレる芝居をする。それだけでいい」と認めています。
「ぼかァねぇ、大体、(新聞の)一面向けの顔じゃないですよ」と言っていましたが、一面を飾ったのが80年2月26日夕刊の「顔」(1142回)でした。(一番上の画像がその時の紙面です。)
その人柄に迫る連載「人」に、85年12月6、9、10日と3回に渡って登場しました。
「スイスの名ジャーナリスト、エミール・ルードビッヒは、その著『インタビューの技術』で、次のように注意した。『なにより大事なのは素朴な姿勢である』」という、ちょっとキザっぽい文章で始まる癖が強めの記事ですが、田中さんの素顔を「多くの役どころとはまったく違って、まじめでシャイで、折り目正しいもの静かな実年なのである」と指摘しています。
ちょっと横道に逸れますが、「実年」とはあまり耳にしない言葉ですが、5、60歳代の人を指す言葉だそうで、この記事が掲載された85年に厚生省が公募で決めたそうです。
連載2回目は、バッティングセンターでバットをする姿を披露しています。この回でハッとしたのは、記者による若大将シリーズの「青大将」評でした。
「(加山雄三さん演じる主人公の)若大将は、若者の願望、幻影にすぎないが、もてず、ダサく、腹立ちまぎれに車をけとばすしかない青大将は、どこにもいるその他大勢の欲求不満族にとって、だれより旧汚名できる存在だった」
青大将は大きな会社(たいていは自動車会社)社長の御曹司として登場します。その坊ちゃまの体裁が、見ている(私のような)非モテにとって卑屈になることなく、青大将にすんなり共感し、笑えたのではないでしょうか。
そんな愛すべき青大将像を見事に具現化し、私たちに提示してくれた田中さんの功績はシリーズの成功にとっても、非モテの救済にとっても大きかったのかな、なんて思ってしまいました。
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