(福)です。
「サマーウォーズ」と言えば、昨年8月に劇場公開されて大ヒットし、文化庁メディア芸術祭のアニメーション部門の大賞も受賞した、細田守監督のアニメ映画です。公開当時、私は福島支局にいたので取材などには直接タッチしていませんでしたが、福島の映画館で初めて見た時は衝撃を受けました。その「サマーウォーズ」がいよいよ映像ソフト化され、ブルーレイとDVDが今月3日に発売されます。ソフト化に当たっては、新たにHDリマスターのソースが制作されましたが、そのHDリマスター版を劇場で上映する一夜限りのイベントが、2月27日に東京・新宿バルト9でありましたので見てきました。
HDの16:9の画角は、映画のビスタサイズよりも微妙に左右が短いのですが、単純に両端を切るのではなく、カットごとに効果的なフレーミングや、テレビ画面で見ることを想定した色味の調整などを、細田監督自ら行ったそうです。実際に大スクリーンで目の当たりにした映像は本当に鮮明、クリアで、最前列に座っていたこともあって、いっぺんにはとても処理しきれないほどの情報量が画面全体から押し寄せてくる感覚に襲われました。
上映終了後には、アニメ評論家の氷川竜介さん、プロデューサーの高橋望さんらによるトークイベントも行われました。その中で、ブルーレイ版の特典である「サマーウォーズ・ナビ」のデモンストレーションも披露されたのですが、これがまたすごかった。シーンごとの絵コンテの画像や、スタッフらが場面にまつわる話を語ったオーディオコメンタリー、楽曲解説、豆知識などが、本編映像を再生しながら一つの画面で行ったり来たりしながらそのまま確認でき、氷川さんによる、作品をより深く味わうための解説なども随所に織り込まれる構成。HDなので、文字の情報量が多くても問題なく読むことができ、新たな「サマーウォーズ」の楽しみ方が広がりそうな予感がひしひしとしました。公式ブログでは、その内容がより詳しく紹介されていますので、ぜひご参照ください。
トークイベントでは、氷川さんが「サマーウォーズ」を「細田監督のこれまでのキャリアの集大成」と評していたのが印象的でしたが、以前からそれなりに細田監督の作品を見てきた者として、実は一つ気になっている点がありました。それは、ネット上の仮想空間での強大な敵との戦いなど、物語の展開や構成が、細田監督の2000年の作品「デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!」とよく似ているのではないか、ということです。事実、私も初めて見た時には、どうしても「ぼくらのウォーゲーム!」を想起せざるを得ませんでした。
ところが、そう感じたのは最初の1回だけでした。繰り返し見るうちに、その類似性は全く気にならなくなり、むしろ「サマーウォーズ」という作品自体が持ち合わせている物語の展開、構成が、背後から浮かび上がってくるような印象を受けたのです。つまり、「ぼくらのウォーゲーム!」的要素は、「サマーウォーズ」の一部分ではあるが、決して全体ではない。初見だと、どうしても似た所が目に付いてしまって、それ以外の所に気がつきにくいんですね。それは、「ぼくらのウォーゲーム!」が優れた映画であることを示すと同時に、そうした要素をあえて目立つように入れ込みつつ、それを上回る作品を作り上げることができるんだという、細田監督の自負をも示しているような気がします。
なので、もし以前の私と同じような感覚で「サマーウォーズ」を楽しめなかった方がいたとするならば、ソフト化されるこの機会に、ぜひとも改めて見直して、私が上に書いたことが事実かどうか、その目で確かめてほしいのです。ブルーレイ版は割高だという声も聞こえますが、はっきり言って「サマーウォーズ・ナビ」への力の入り方は尋常じゃありません。これにアバター絵柄の花札セットや背景美術を中心としたARTBOOKなども付くといういうのですから、決してそんなことはないと思います。
実は私の家は、HDテレビこそあるものの、いまだにBDプレーヤーがないんですよ。今やもう、「サマーウォーズ」BDに合わせて、PS3でも買ってしまおうかという勢いです。あのハイクオリティな映像が自宅でも楽しめるのかと考えると、もう居ても立ってもいられない気持ちになります。
最後に、私が昨年8月に英字新聞「The Daily Yomiuri」のコラム「Through Otaku Eyes」で書いた、「サマーウォーズ」に関する文章の末尾部分を日本語で引用して、本稿を締めくくりたいと思います。
筆者が「時をかける少女」の公開直前、細田にインタビューした際、彼はこう語っていた。「『今』という時代を引き受けたい」と。ネットがまだ子供たちだけのものだった「今」を切り取ったのが「ぼくらのウォーゲーム!」なら、その子供たちの成長とともにネットの世界が拡大した「今」を鮮やかに現出して見せたのが、「サマーウォーズ」であると言うことができるだろう。そしてその「今」とは、我々が暮らすこの世界を写す鏡であるに違いない。