毎年この時期っていうのは、受験生にとっては勝負の季節だよな。オレがジムに入門したときは別に受験なんてなかったけどな。自分の体を一生懸命いじめて体力をつけることが、受験勉強みたいなもんだったが。必死になって受験する、そういう気持をちょっと最近忘れてるんじゃないの? たまにはお前らも、受験してこい!
さて、どんな受験をしてきたか、さっそくみていこうか。例によって「読売新聞」からだ。プロレスの入門テストに、受験用の証明写真に、旅芝居劇団の団員募集か。まあ、旅芝居劇団も、一時しのぎのバイトみたいなもんだが、自分を必要としているところにチャレンジするのはいいことだ。これは派遣切りされた人を受け入れるってニュースでもやってたしな、だいぶ一般にも知られてきてるよな。
川崎の証明写真屋さんは、合格率が90%か。まあ、ある種神頼みみたいなモンだな。しかし、受験なんてのは、神頼みじゃダメなんだよ。神頼みじゃなく自分の実力で、受験という登竜門を抜けていかねえとなあ。まあ、神にもすがりたい受験生の気持もわからないでもないけどね。オレから言わせると、オレたちは体験主義者だから、一生懸命仕事をした人が一番強いと思うよな。要するに一番練習した人が一番強いってことだから。練習はウソをつかないからね。だいたいな、神頼みつったってさ、お賽銭の金額でご利益が違うってよく言うでしょ。意味わかんねえよな。
そしてプロレス入門の受験たってな、まあ体を張った体験をしてきたことは認めるが、本当のプロっていうのは体験入門じゃわからない、そんなもんじゃないからな。甘いもんじゃないんだ。オレが言わんとする受験っていうのは、そういうことじゃないんだよなあ。たとえば、元ピッチャーの桑田さんが早稲田を受験したとかさ、そういう「文武両道」の「文」の方をさ。受験っていうのは、もっとほら、寝ずに朝まで勉強して、そこにおじいちゃんおばあちゃん、お母ちゃんの家族までつき合ってさ、みんなで目を真っ赤にして頑張る、みたいなさ。今回の「読売新聞」は、どっかこう、楽な、軽い、シャレ的なもので済まそうとしてるよな。「受験」と「体験」は違うんだ。分かってねえな。
さて、「TOKYO★1週間」のアイツらはどうだ? そば打ちレッスンに、お守りを値切って、犬の鼻をなめるソムリエってなんだこりゃ? それがどうしたの? ただしひとつだけな、神社に行ってお守りを値切るってな、これはオレの好きなタイプだな。いまは個性の時代でしょ。そんななかでこの無神経さっていうかな、図太さがあれば、神様も覚えてくれるんじゃないの? 持ってけこの野郎!ってんでね。御利益はないかもしれないけどな。この「弥次喜多精神」みたいな、馬鹿馬鹿しさ加減は悪くないな。
そんなわけで、今回はどちらもピリっとしないもんだったが、どちらかと言われたら、神社でお守りを値切ろうというこの精神に軍配を上げたいな。「TOKYO★1週間」の勝ち、だ。
準備があってこその「受験」
オレたちスポーツの世界では、確かに神頼みみたいなこともするよな。御利益はないとわかってるけど、どこかで何かに頼る気持はある。そういうある種の素直さみたいなものは、忘れちゃいけないよな。オレは現役の頃、ゲン担ぎとしていろんなことを左からやったね。くつ下を履くのも、靴を履くのも、グローブをはめるのも全部左から。洋服に袖を通すのも左手、風呂に入るのも左足から、とにかく「左は世界を制す」っていうからな。神頼みとはちょっと違うけど、そういう、物に対する思い入れというかね、そういうことで自分をコントロールしていくんだ。左、左、左。何事も左から。甘いもんじゃない世界だからこそ、気持の持っていき方としてそういうことはよくしたな。
今回のお題の「受験」に関して言えば、受験っていうのは、事に臨む前の準備なんだよな。準備運動とか準備期間があってはじめて「受験」と言えるの。それを何の準備もなく「体験」だけしてきてもダメなんだ。漢字検定の問題が騒がれてるけど、日本人なんだから「受験」という言葉の意味をちゃんと把握してから行動すべきだな。そんな中で、神社でお守り値切るのかよ、という弥次喜多の馬鹿さ加減が目立った。それで究極の勝利ってことだな。